December 01, 2020

グアムに来ています。

 

 日本では新型コロナ流行の第三波がメディアを賑わせているところですが、グアムに来ています。グアムに来ていると言っても、飛行機が着陸したら即、機側から関係者に付き添われ、あっという間にホテルまで直送されて隔離されてます。東京を出る直前のPCR検査でも、グアムで受けたPCR検査でも陰性なのですが、隔離されてます。

 たしか2019年11月が新型コロナ流行前の最後の海外出張でしたので、それから約1年。それまでは海外出張の合間に海外旅行に行くようなことをして、2か月に1回くらいはどっかに行ってるような生活でした。なので丸々1年まったく国外に出なかったのは久しぶりなのですが、出国したとはいえホテルの部屋からは出られないので、あまり意味はないですね。


 誰しもがいつもと違う1年を味わう羽目になった2020年でした。12月になったばかりで2020年はまだ1か月残っていますし、まだこれからもおおごとが起きそうですが、個人的にももうここまでで十分、身心に重くのし掛かる出来事が続きました。

 予定していた仕事が新型コロナの流行を受けてぽつぽつと延期や中止となっていた年の初め、久しぶりの海外勤務を打診され、4月にはそれが確定。しかし実際にはいつ赴任できるかは目処が立たず、基本的に国内待機。ちょうど緊急事態宣言が出てた時期に重なり、身動きができない状態に。
 収入は減ったものの幸い独り身で食うに困るほどではなく、とはいえいつ赴任が可能になるか見通しが立たず、住むところをどうするか問題が浮上。赴任時期が確定していれば今の住処を退去する時期も決められるけど、いつまで東京にいなくちゃいけないのかはっきりしない状態でどう住むところを確保するのか。家財はどう処理するのか。

 3年余り福岡の実家で入退院を繰り返していた母の体調が芳しくないとの連絡を受けていたのもこの頃。一方で僕の海外赴任がいつ決行になるのか分からない。おまけに新型コロナ流行のせいで県境を越える国内移動は控えよという圧力。簡単に福岡に戻るわけにもいかない。

 そもそも中東やアフリカの経験が長い僕の久しぶりの海外赴任が大洋州になったのは、母の容体を考えると出来れば日本に近い、往来しやすいところがいいと考えたためだったのに、何が何やら分からなくなってしまいました。


 9月に母が他界。この時点でまだ僕の海外赴任時期はぐずぐずと調整が続いていて、なんだかんだ言いながら福岡に戻って母の最期を見取り、葬儀にも立ち会うことができたのはまさに字義どおり不幸中の幸い言えました。それどころか、少し早めにやった四十九日の法要まで日本にいることができました。いずれも感染防止のためできるだけ参列を遠慮していただくようみなさんにお願いして静かなものになりましたけれど。

 そして11月。それも11月16日になって19日に出国できる手筈が整ったとの連絡を受け、実質3日間で慌ただしく身辺整理。しんみり感傷に浸る間もなく成田からグアムに移動して、今に至ります。そしてこの後、最終目的地到着まではまだしばらくかかりそうです。


 例年に比べて自殺者が大幅に増えてしまうほど、たくさんの人たちの生活が狂ってしまった2020年。自分こそは大変だったと自慢しても詮無きことですが、世の中こんな境遇に陥った人もいる、ということでメモ残しておく次第です。

September 29, 2020

母が亡くなりました。

母が最期に見た景色。福岡タワーとドーム球場。


母が亡くなりました。
明日が72歳の誕生日という日でした。

親より早死にしない限りみんな経験することだし、母を失う心情は古来より文才のある多くの人が優れた筆致で綴っていることなので、あえて僕が何か書くことではないのかもしれないと思いつつ、さりとてやはり人生にただ一回のユニークな出来事であり、思うところは書き付けておきたいと思いました。

*   *   *

複雑な劣等感を抱え、天邪鬼で、付き合いの難しいところもあって、理想的な母親とは言えない人だったかもしれませんが、僕を産んだ人であり、育てた人であり、いつも僕を気にかけてくれてた人であり、また僕が常に気をかけてきた人でもあり、その人がこの世界からいなくなるという喪失感は重いものがあります。葬儀を終え、初七日を終えても、身の回りのほんの些細なことにつけていちいちあの日あの時の母の様子が思い出され、手が止まってしまいます。

特に病気の診断がついてから息を引き取るまでの3年9ヶ月は、不治の病だということもあり、自分の感情を自分で面倒見ることができず、周りに不満を撒き散らし、いっそう扱いの難しい人になっていました。経験もしたことないのにおいそれと「分かります」とは言えないですが、そうなるのも無理からぬことだとは思います。人生が終わるのですから。

それでもあの人が何を考えていたのか。決して恵まれているとはいえない境遇に生まれ、幼い頃から弟たちの世話や家事に明け暮れ、早くに働きはじめて職場で知り合った父と結婚し、多くの月日を子育てや祖父祖母の世話に追われた人生の中で何を思っていたのか、最期に「よかった」と思って旅立つことができたのか、考えても詮無きこととはいえやはり母の人生を思わずにはいられません。

*   *   *

葬儀でお経を上げてくれた浄土真宗の導師は、死を認識するのは人間だけだと話されていました。もしかしたら大型類人猿も認識しているのかもしれませんが、大まかに言ってそのとおりなのでしょう。

宇宙に散らばった原子はやがて星を形成し、星の上では複雑な分子が形成され、そこから有機物が生まれ、生物が生まれる。生物は進化の過程で神経系を発達させ、脳という器官を生み出しました。そして地球という惑星の上での生物の生存競争の果てに、ヒトという生物は「意識」を持つようになりました。「意識」とはなんなのか今ひとつよく分かりませんが、とにもかくにも自分という存在が生きているという自覚を持つようになったのです。

僕らの意識、精神の働きは脳や体を構成する原子、分子の構造やその中を行き交う電気の刺激に還元できるのか、それら原子、分子の足し算だけでは説明できないものなのか。説明できないという人は、そこに霊魂の存在を見るのでしょう。

母は亡くなりました。

しかし僕は、そこに霊魂の存在を見出さない、科学を尊ぶ種類の人間です。母の体は病に冒され、生きている人としての有機的で動的な生命活動を維持できなくなり、意識は薄れ、やがて身体の代謝も停止したのだと理解しました。

ただ、無に帰ったのだと考えています。

お経を上げてくれた導師は「みんな御仏になって」とか仰っていたし、家族や親戚も母は先に亡くなった祖父母や叔父たちとやっと一緒になれるでしょう、という話をしています。そう考えた方が救いがあるかもしれません。「意識」を持つようになった人間は、あまりにも不可思議・奇妙な世界、特に死という現象、言い換えれば「意識」の停止という現象に押し潰されないために神とか来世とかの概念を導入し、宗教を必要とするのだと思うのです。

母は亡くなりました。

しかし母の記憶は僕の中に確かに残っています。母と関わった人々の中に、あるいは母のことを聞いた人、見た人の中にも、記憶として残っています。そして記憶というものも、その仕組みはまだ完全に解明されていないにしても、僕らの脳の中に蓄積された細胞や分子や電気信号の繋がりであることは間違い無いと思います。その意味では、母の存在は多くの人々の記憶として、すなわち多くの人々の脳の中の構造として生きていると言えるでしょう。生命活動を行う実体としての母の肉体は終わりを迎え、その意識は失われてしまいましたが。

「人は二度死ぬ。一度目は肉体的な死。二度目はすべての人がその人の存在を忘却した時。」と言います。僕の母は肉体的には死を迎えましたが、僕が生きている限り、二度目の死は来ないのです。

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祖父、祖母が亡くなり、母の弟たち、すなわち僕の叔父たちも亡くなり、この理不尽な「死」という現象に向き合うことを少しづつ理解し、いつか来ることが分かっていた母の死にも向き合おうと思っていたのですが、やはり実際に迎えると寂しいものです。ややもすると理性が勝ち過ぎるきらいがあり、「死」というものを科学的、合理主義的な視点で見る僕でさえも、母がいなくなることで感情は掻き乱されます。何を見ても、何もやっても母の影がちらつき、手が止まります。母が息を引き取った日の夜は、母のそばを離れ難く、ずっとその顔を見つめていました。

しかしそしてまた、こうして母が亡くなるという経験を経て、やがてくる僕自身の「死」についても準備が進むような気もしています。

*   *   *

この度の母の逝去にあたり、あたたかいお悔やみ、励ましの言葉をいただいた方々に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。正直たいへんでしたが、そして今もたいへんではありますが、僕は元気です。

May 15, 2020

ラダック再訪。(2)


前回からの続きです。)

 世の中にはキルギスとかブータンとか、日本人とよく似た風貌の人たちが住むところがありますが、ラダックもそのひとつ。地元の人たちには驚くほど日本人な人がいます。定食屋でビリヤニを食べてたら店に入ってきた数人の軍人さん、その中の若手くんなんか、「近所の高校のサッカー部の部活の帰りです」と言っても違和感ない。日本語を解さないのが不思議なくらい。

 反対に、今回泊めていただいたNyamusyan House Homestayを切り盛りしてらっしゃる池田悦子さんは川崎のご出身、3人のお子さんもみんな日本で生まれた日本人なのに、違和感なくラダックに溶け込んで暮らしていらっしゃる感じでした。一番上のお姉ちゃんが学校に持っていくお弁当が不満だったらしく「ここは日本じゃないんだからあ!」とママに文句言ってたのはご愛嬌。

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 Nyamusyan Houseを拠点に1泊2日で小旅行に出かけました。標高が高いところでの本格的なトレッキングは自信がないので、車で途中まで連れて行ってもらって、まねごと程度に半日ほど山歩き。スタート地点からして既に標高3,500m前後、いつもは都内の海抜30mくらいのところで生活している僕には空気が薄くてツライので、そのくらいで勘弁してもらいました。車でYangthong村まで行って民家に1泊、そこからLikirまで、6,000m級の山々を眺めながら歩きます。







 いやもうね、広大でダイナミックな景色はこの土地ならでは。写真では伝わらないこの地の空気。車の中から見るのとは違って、ラダックの大地を生で感じることができました。やはり少しでも歩いてみるべきですね、ここまで来たのなら。ところどころでこの地の暮らしの様子もうかがい知れて、翻って自分の生き方を省みることになるのも旅の妙趣です。
 ただ、平坦なところはいいんですが、ちょっとでも登っているところはいちいち息が上がってたいへん。一緒に行った友人からも時々大きく遅れてしまいまして。高山病になってるわけではないし、歩けるんですけど、ゆっくりしか歩けない。僕は日本人としてはかなり大柄で、エンジンに比べて重量がある車みたいなものでして。でも、それでもやっぱり歩く価値はありますよ。

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 翌日は海抜4,000mを超えるところにある湖、Tso Karまで日帰りドライブ。途中、今回の旅で標高が最も高い5,359mのTanglang Laの峠を越えます。


 峠を越えてたどり着いた先はこの眺め。「わー、広いー!」と水辺に向かって駆け出そうとして、「あれ、変だ。動悸が止まらない…」ここが海抜4,000m超であることを思い出します。うっかり張り切って駆け出してしまうと倒れちゃいそうなので、ゆるゆると散策です。






 前回18年前のラダックの旅ではこの先のTso Moriri湖まで足を伸ばしたのですが、今回は日帰りなのでここまで。前回の時の自分の日記を見てみると、僕はTso Karに着く頃にはかなり疲れていて体調も良くなかったらしく、あんまり周りを見る余裕もなかったようですが、今回は湖を眺めながら熱くて甘いお茶を飲んで、双眼鏡で動物も観察して、ゆっくり過ごしてきました。

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 インドの旅はいつも裏切られることがありません。旅の目的はいろいろで、まあ一番簡単に行ってしまえばリラックス、リフレッシュなんでしょうが、インドの旅はなんていうか、頭を初期化するような効用があるように思います。都市の暮らし、日本の暮らしで凝り固まった頭をほぐすような。

 まして今回はラダック。インドと聞いてイメージするような人、人、人の波に巻き込まれることもなく、スケールの大きな自然とそこで生活する人々の暮らしと文化を見せていただくことができました。Nyamusyan Houseを切り盛りする池田悦子さんの思い切りのいい生き方をうかがうのも、自分の生き方を振り返り省みるよい機会になりました。

 実はラダックは意外と近い秘境です。東京からデリーまで飛行機で9時間台、そこから乗り換えてレーまで1時間半くらい。思い立ったら行ける場所だし、夏の避暑にも好適で、また行きたいと思う場所になりました。もちろん都市生活にはない不便もあるし薄い空気も体力を奪うので、誰にでもオススメできるわけじゃないですが、インド旅行が好きだという方は、一味違ったインド旅行として次の目的地の選択肢として検討してみてはいかがでしょうか。ぜひ。




August 25, 2019

ラダック再訪。(1)



 もう20年以上も昔、修士課程を終えた記念にインドを旅行してからその魅力を覚え、幾度となく彼の地を訪れています。ジャンムー・カシミール州、ラダック地方も2001年8月に行っているのですが、2019年8月、ラダックに山岳トレッキングに行くという友人に誘われて再度出かけてみました。本格的な山岳トレッキングは僕の燃費の悪い大柄の体躯には荷が重いので、そこは適当に勘弁してもらいつつですけどね。


 最寄りの空港はレー。デリーからLCCで1時間程度で意外と近い。昨今はインドもLCCの航空網が発展して、どこも行きやすくなりました。今回は空港からさらに車で1時間弱、レーの街からインダス川を挟んだ対岸のストク村に宿泊です。インダスを渡るメインの橋が壊れてしまって使えないとかで回り道、レーからはいつもより少し余計に時間がかかるみたいです。
 このページの一番上の写真はストクの村の遠景。背後に見える雪山はストク・カングリ(標高6,154m)。ストク村(標高3,500m強)でも空気薄くてそれなりに大変なのに、みなさんあんなところまで登りに行くんですよ。



 今回泊めていただいたのはNyamushan House Homestay。ラダックの男性と結婚して現地に移り住んだ池田悦子さんが子育てしながら切り盛りしていらっしゃる民宿っぽいお宿です。聞けば住む人がいなくなってた旦那の実家を改装した建物だそうで。地域で最も古い民家のひとつだそうです。

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 東京暮らしは嫌いではないし、今の仕事もそれなりに納得してやっている。時々は友達と外食に出かけ、美味しいお酒など楽しむ。それはそれでいいんですけど、その繰り返しも長くなると、なにかどこか、思考が硬直してくる気がします。こんなんでよかったんだっけ?
 時には日常を離れ、自分の生活を俯瞰する時間が必要なようで、それが僕にとっての旅行の意味でした。インドはその旅先としてうってつけ、もう数えるのはやめましたが、10回以上は来ているはずです。


 初日はまだ薄い空気に体が慣れず、ずっと心臓がバクバクしている状態なので、村の中の旧王宮までゆっくりゆっくり散歩。東京の自宅を出てからまともに寝てない寝不足状態もあって、けっこう息が切れます。自分が老人になったときの疑似体験をしているようでした。
 ストクの王宮は19世紀に建てられ、ラダックの王家の住まいだったところだそうです。今はインダス川の対岸のレー市街を見晴らすことができる博物館になっていました。

*   *   *

 翌日はレーの市街へ。空港も近く、この地域で一番の街です。前回訪れたのは18年も前ですが、来てみるとなんとなく思い出すところがあります。もちろん、開発も進んでいて建物も増えているんですが、「たしかこっちに抜け道があった」「当時からここに観光客向けのレストランがあってビールが飲めた」「ここは建築中だったけど、18年経ってまだ建築中なの?」「あの時泊まった宿はこの道の先の左手だった」と記憶がよみがえります。


 18年前は一人旅でした。上京してから数年経って、でも当時も「こんなんじゃないはずだ」と模索の日々で、都内でまた別の大学院に入り直していろいろとめんどくさいことを考えている頃だったはずです。
 一人旅だったけど、車をシェアしたり、同宿だったり、レーから一緒に遠出したりした旅の道連れがいて、実質は一人ではありませんでした。あの時お茶を飲みながらいろんな話を聞かせてくれたオーストリアの女医さん、もう名前も覚えていませんが、ダラムサラでボランティアで医療活動をしてて、ラダックの僧院を巡った後はアムリトサルの黄金寺院を見に行くとおっしゃってましたっけ。「そこは千夜一夜のようなところで、きっと人生も千夜一夜のようなものよ」と微笑みながら、出会った記念にとマニ車のペンダントヘッドを僕にくれました。


 そのペンダントヘッドは、今、まだ僕の手元にあります。あの時から、夜の数は千回を超えましたね。みんなどこで何をしてるのかなあ。

*   *   *

 そろそろ高地にも慣れてきたところで、レーから120kmほどのところにあるLamayuruの僧院(ゴンパ)へ。18年前は砂利道だった道路はすっかりきれいに舗装されていて、途中休憩を取りながら行っても片道4時間はかからないです。


 途中、ザンスカール川とインダス川の合流地点を通ります。川の水は今は茶色だけど、冬には緑色になるそうです。




 Lamayuruのゴンパ。この地域の総本山みたいな僧院です。盛んに建築、増築が進んでいましたが、「今は僧は150人くらいしか住んでないよ。」とのこと。

 レーにはレンタルバイク屋がたくさんあって、ラダックのツーリングも気軽に楽しめそうなんですが、18年前にはまだレンタルバイク屋はありませんでした。でも、もぐりでバイクを貸してくれる人はいて、僕はそれでLamayuruまで来ようとして、でも途中でバイク壊しちゃったんでした。雑にギアチェンジしてクラッチパネルを割ったんです。あの頃キミは若かった。あの時、砂利道をバイクを押して歩いた記憶があるので、この道が舗装されていなかったのは確かです。
 それであの日、なんだかんだあってLamayuruの少し手前のKhaltseの村に一泊することになって。同宿のおじさんと一緒に晩飯食べて、片言の英語で家族の話、宗教の話、インドと日本の話などしたんだっけ。「日本に帰ったら、キミの"inner spirit"を書いてよこしなさい。」そう言っておじさんは僕のノートに自分の名前と住所を書いたんです。
 翌日、宿を出ようとしたら、僕の宿代と飯代はそのおじさんによって支払済でした。すいません、18年経ちましたが、まだお礼も言えてないし、"inner spirit"も書いてません。

 今回はLamayuruの帰り途、Khaltse村でドライバーくんとガイドくんとチャイを飲みながら、そんなことを思い出していました。




(長くなりそうなので一旦ここまで。後編に続きます。)

July 14, 2019

モビリティ。


 この「東京トヨタ渋谷店」、前に通った時には外壁に足場を組んで作業中だったんですけど、出来上がってました。

 ああ、やっぱり。そうだよね。「トヨタモビリティ東京」。 

 カーシェア、コネクテッドカー、自動運転車と車を取り巻く環境は急速に変化しており、「車」の概念さえ変化しそうなこのご時世、トヨタのような会社がその先を見てないはずがない。

 そもそも「車」は何のためにあるのか。人や物をある地点から別の地点に移動させるためです。

 逆に言えば、「人や物をある地点から別の地点に移動させる」ことができれば、なにも今の「車」にこだわる必要はない。

 そう、「車」の概念さえ変化しそうなな時代にあって、自動車メーカーが今のまま「車」を作ってればよいという日々は早かれ遅かれ終わる。

 だから、トヨタは「自動車メーカー」から「移動〜モビリティ〜」を提供する会社と自己定義を変えようとしているに違いない。


July 10, 2019

選挙制度の話。

 現与党の安定多数の議会に不満な人が「与党に投票していない人は80%もいる!なのに議会で多数派!おかしい!」みたいな批判をしているのを見ててモヤモヤする。与党に批判的なことはいいんですけど、その批判の仕方としてこれは筋悪じゃないですか。

 そういう批判をする人は、棄権した人たちがもし投票していれば野党に投票していたはずだという根拠なき自信を持っているところから変なんですが、それを横に置いたとしても、やっぱり考えが浅くないですかねえ。

 たとえばですね、各党の得票数の割合と議席数の割合を一致させるとすると、完全比例代表制ということになるわけですが、これも問題でしょうと。仮に国民の1%の支持がある政党があれば、定員500議席の議会では5議席取れる。こんな調子で、数人、数十人の勢力の小党が乱立すると、意思決定できない議会ができてしまうんじゃないでしょうか。政治はどこかの時点で「決めること」が求められますが、数人、数十人の党がわちゃわちゃしてたら、なかなか物事は決められない。それは困る。迅速性に欠ける。

 んなもんですから、比例代表制ながら足切り制度を導入している国もあるそうですよ。たとえば、有効投票数の5%以下しか得票していない政党には議席は与えないとか。泡沫政党や無所属議員を排除してしまうんですね。なるほど。

 しかしその完全比例代表制はなんだかなあということで、その対極にあるのが多数代表制というか小選挙区制ですよね。「決められる政治」を目指すなら、少しでも得票の多い方の党の主張に沿うのが民主的であるから、各選挙区に議席は1つずつにして、そこで一番たくさん得票した人に議席を与えましょうという考え方。

 これであれば「決められる政治」が生まれやすい。世論の支持が他よりちょっとでも多い方の党がごそっと議席を取るので。

 が、これはこれで問題です。そのときそのときの世論の風で各党の獲得議席数が大きく振れがちで政治の連続性、安定性に欠けるかも。また、自分の投票した候補が当選しない、死票が多くなることも悲しい。

 では、というのでその昔、日本でもやっていた中選挙区制なんていうのもある。1つの選挙区に3議席、4議席とかを割り振る制度。これだと比例代表制と小選挙区制の間くらいになるかと思われるのだけど、またこれはこれで問題がある。かつての日本の場合、3議席なら自民、社会、公明、4議席なら自民、社会、公明、共産、みたいに固定してしまう。与党に逆風が吹いてその支持が落ちても、ただ得票数の順番が「自民、社会、公明」から「社会、自民、公明」になるだけで各党の議席数があんまり変わらなかったりする。この硬直性は問題なのではないかと。世論の動向に鈍感でいいのかと。

 それで政権交代が可能な制度として、日本でも小選挙区制が導入されるようになったんじゃなかったっけ。ただ、小選挙区制一本でいくのもまた不安定だから、小選挙区比例代表並立制なんていうハイブリッドなシステムを作ってみたりして。

 どんな選挙制度にも一長一短あるんだと思う。「決められる政治」「安定した政治」「世論の動きに敏感な政治」。バランスよく、かつ公平公正にしなくてはならないので、選挙制度は試行錯誤。他にも、一票の格差の問題とか選挙区割りの問題とか、考慮しなくてはならないことはいろいろあるし。

 日本の選挙制度がすばらしいというつもりはないですけど、一応そういう工夫の積み重ねで今の制度があることには間違いないし、幸い不正も少ない。世の中には、議席の半分を軍が取るとか、議席の半分を大統領が指名するとかいう制度の国だってあって、そういうのに比べたらマシな気がする。

 そうやって工夫を積み重ねて作ったルールの上で、選挙というゲームをやっているわけでしょう。公になっている、みんなが知ることができるルールがあって、そのルールに従って戦って、勝ったところが政権を取るのは当たり前じゃないですかね。

「与党に投票していない人は80%もいる!」と批判したところでなんら説得力はないじゃん。そういうルールなんだから。

January 25, 2019

アフロ・ジャズ



 Oliver Mtukudziが亡くなった。享年66歳。

 といってもほとんどの日本人は彼を知らないだろう。僕も詳しくは知らない。 

 「有名なミュージシャンだよ。」

 そう誘われてコンサートに行ったんです。日もすっかり落ちたハラレ市内の屋外ステージ、盛り上がってました。それでなんとなく、CD買って帰ってきたんです。

 ギター、ドラムにシンセサイザーの電子音。土着の音楽に根差した反復の多いメロディライン。正直、そこまで凝った作りの楽曲ではない。歌詞は一部英語だけど、ほとんどショナ語で意味分からないし。「アフロ・ジャズ」と言うそうな。

 それでも、聞き直す度に、あれが僕にとってのアフリカのリズムだったなあと郷愁を掻き立てられるのです。

 肩の力の抜けた、人懐っこい人々。だだっ広くて埃っぽい大地。それをそのまま写したような音楽を作る人でした。

 今日はジンバブエや南アフリカのメディアだけでなく、イギリスBBCもその死を悼む報を流しています。

 まあ、ムガベ大統領時代の世相をおちょくるような歌を唄ったり、unicefに楽曲で協力したりもしてたみたいですけどね。

 https://itunes.apple.com/jp/album/wonai/1206939787

 ご冥福をお祈りして、今日はこのアルバムを聞きながら南アフリカのワインを一杯。